箸の先が、こっちに向いてる。三十秒くらい、その状態で止まってた夜がある。
食べたいわけじゃないんだよ、あれ。食べ物の話をしてるように見えて、まったく別の交渉が進んでる。
差し出された箸は、たいてい食べ物の話じゃない
断られても傷が浅い、絶妙な設計
ここが、この行為の一番うまくできてるところでね。
断られても、こっちは冗談として引ける。相手も、恥ずかしいからと言えば角が立たない。両方に逃げ道が用意された状態で、それでいて応じてもらえたら関係が一段進む。
低リスクで距離を測れる装置として、これほど都合のいいものはない。だから男は使う。使ってる本人が、そこまで自覚してるかは別として。
甘えたいというより、確認したい
赤ん坊みたいな行為だと言われがちだけど、実際に働いてるのは確認の機能のほうだと思ってる。
自分がこの人にとって、どのくらい特別な位置にいるか。それを聞くのは重い。だから食べ物を経由する。
応じてもらえたら、言葉なしで答えが返ってくる。断られたら、まだそこじゃないという情報が手に入る。しかも傷が浅い。よくできてるでしょ。
場面によって、中身がまるで違う
二人きりのときだけ言う人
誰も見てない席で言うなら、目的は相手との距離そのもの。純度は高い。
こういう人は、断られたときの引きも早い。目的が二人の間で完結してるから、無理に押す理由がないんだよね。
人前で言う人の、別の狙い
友達の前、同僚がいる飲み会。この場面で言われた場合、観客の存在が計算に入ってる可能性がある。
周囲に関係の親密さを見せたい。あるいは、断れない状況を作ってる。後者は、本人に悪気がなくても構造としてはそうなってて、断ったら空気が悪くなる設計が働いてる。
ここは、応じる前に一拍置いていい場面だと思う。
ホストクラブでは、あれは営業の道具だった
一口渡すだけで、席の空気が変わる
フルーツの盛り合わせが来る。それを一つ、客に差し出す。教わった技のひとつだった。
理屈は単純で、口に何かを入れる行為は、相手を無防備にする。しかも受け取った側には、返さなきゃという小さな借りが生まれる。そこから会話の温度が上がる。
正直、覚えたときは嫌だった。人の反射を利用してるだけだから。でも効くんだよ。効いてしまう。
順番も指導された。まず自分から渡す。受け取ってもらえたら、次の段階へ。いきなり求めるのは下手なやり方だと言われた。
断られた夜の、腹の底の冷え方
新人の頃、初回の客に差し出して、すっと目を逸らされたことがある。
たった一口の話なのに、あの気まずさは相当だった。手だけが宙に浮いてて、五秒くらい。ひやっと汗が出た。
このとき覚えたのが、断られた側にも普通にダメージがあるという事実。だから男があーんを求めるとき、けっこうな確率で緊張してる。ふざけてるように見えて、内心はそこそこ賭けてます。
店で女性たちが言っていたこと
恥ずかしいのに、断ったら悪い気がする
からん、と氷が鳴る時間帯に、こういうことを言われた。
「別に嫌じゃないんだけどさ、恥ずかしいのと、断ったら傷つけるかもってのが同時に来るんだよね」
同じ中身を、何人からも聞いた。嫌悪じゃない。恥ずかしさと罪悪感が同時に発生して、身動きが取れなくなる状態。
だから、断られたからといって拒絶とは限らない。ここは男側が誤読しやすいところ。
もうひとつ、印象に残ってるやつ。
「口を開けるのが、なんか無防備すぎて怖いの」
言われて、なるほどなと思った。あれは口を開けさせる行為でもあって、恥ずかしさの正体はそこにあるらしい。
やってあげたら、その後が急に楽になった話
逆の報告もあった。
「一回やったら、なんか壁が取れた感じがして」
一度応じると、その後の距離が縮まる。手をつなぐより先に、こっちのほうが効いたと言った人がいた。
食事は一日に何度もある行為でね。そこに二人だけの動作が一個混ざると、日常の中に関係が食い込む。手をつなぐのは特別な場面だけど、飯は毎日だから。
俺が言われた側になったとき
差し出されて、固まった
店を辞めた後の話。当時の相手に、フォークを差し出された。
固まった。三秒くらい、たぶんもっと。
営業で何百回もやってきた側なのに、やられる側になると何も動けない。あの感覚は、ちょっと衝撃だった。
できない自分に、少しがっかりした
結局、口は開けた。開けたけど、目が泳いでたと思う。
向こうは笑ってた。何なのその顔、って。
自分がやるぶんには技術として処理できるのに、受け取る側になった瞬間に無防備さが直撃する。ずっと渡す側にいた人間は、受け取る訓練をしてない。しょうもない発見だけど、あれは効いた。
あーんが恥ずかしいのは、幼く見えるからじゃなくて、丸腰になるからなんだよね。順番として、差し出す側より受け取る側のほうが重い。
応じるかどうか、迷ったときの整理
やらない選択は、冷たさじゃない
やってあげられない自分は愛情が足りないんじゃないか、と考える人がいる。これは違う。
恥ずかしさの強度は、人によって三倍くらい差がある。人前で口を開けることに強い抵抗を持つ人は普通にいて、それは感情の薄さと関係ない。
無理に応じて、その場が苦痛の記憶になると、次から食事の時間そのものが少し重くなる。損しかない。
断るなら、行為だけを断る
伝え方だけ気をつけたほうがいいかな。
無理、で終わらせると、こっちが拒否されたと受け取られる。恥ずかしいからやらない、と理由を一言つけるだけで、まるで違って届く。
そのうえで、代わりに一口分けるとか、同じ皿から食べるとか、別の形にずらすと角が立たない。相手が欲しかったのは、口に入れる動作じゃなくて、その手前にある確認のほうだから。
何度も求めてくる相手の、内側
一度断ったのに、繰り返し言ってくる場合。
これは食べ物じゃなく、確認の回数を必要としてる状態。関係に不安がある時期に増える傾向があって、要求そのものより、なぜ今それが必要なのかを見たほうが早い。
仕事で削られてるとか、こっちの態度が最近そっけないとか。原因が別のところにあるのに、出口だけがここに集中してる。
逆に、こっちが断ったことを引きずって不機嫌になる相手は、まぁ、別の問題を抱えてる。一口の話で機嫌が動くなら、それは食事の話じゃない。

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