鼻で笑われた、二十歳の夜
その靴、どこで買ったの?と聞かれた。 正直に店の名前を答えたら、ふっ、と鼻で笑われた。それだけ。悪口は一言も言われてない。 入店して二週間目、二十歳。顔が熱くなって、返す言葉が出てこなくて、へへ、みたいな声を出した気がする。あの音を思い出すと、今でも耳が痒くなる。
何も言われてないのに、削られる
小馬鹿にする行為のいやらしさって、ここなんだよ。 はっきりした侮辱がない。だから抗議できない。抗議したら、そんなつもりないよ、で終わらされる。証拠が残らない形で、少しずつ削ってくる。 削られた側だけが、家に帰ってから思い出して、うわっとなる。
言い返すな、笑うな、聞き返せ
翌日、先輩に相談した。返ってきたのは三つだけ。 言い返すな。笑うな。聞き返せ。 意味が分からなかった。分かったのは、実際に使った日の夜。その話は後ろに書く。
下げているのは相手じゃなく、自分の位置の確認
あれは優越じゃなくて、測量
人を小馬鹿にする人を見ていると、勝ち誇ってるように見えるでしょ。実際は逆のことが起きてる。 自分がどのくらいの位置にいるのか分からない人が、目の前の誰かを一段下げて、相対的に自分の高さを測ってる。測らないと落ち着かない。 測量って、地面が不安定な場所でこそ必要になるじゃん。あれと同じ。自分の足元に自信がある人は、いちいち他人の高さを測らない。
余裕がある人は、わざわざ測らない
店で一番売れてたホストは、他人をバカにしなかった。する必要がなかったから。数字が自分の位置を教えてくれる。 逆に、数字が出てない時期の人間ほど、他人の靴の値段を気にする。俺もそうだった。あとで書くけど、俺だって加害の側に立ってた時期がある。
これは性別の話じゃない
男も同じ量やってる。むしろ職場では男のほうが露骨だったりする。 性別で括ると、対処法まで的外れになる。見るべきは相手の不安の量であって、性別じゃない。
五つの型に分かれる
不安型
いちばん多い。自分の価値が自分で分からない人。 褒められると気まずくなる。会話の中で誰かが上がると、落ち着かなくなって下げにかかる。 特徴は、下げたあとに妙にフォローしてくること。あ、冗談だよ、が毎回付く。本人も後味が悪いから。
防衛型
先に見下すことで、見下されるのを防いでる人。 過去に恥をかいた経験が強く残ってるパターンが多い。攻撃に見えるけど、動きとしては防御。 この型は、こちらが敵じゃないと分かると、けっこうあっさり止まる。
親密型
いじりが愛情表現になってる人。悪意はゼロ。 心を許した相手にだけ雑になる。距離が近い証拠ではあるんだよ、たしかに。 ただし、加減を知らない。相手が傷ついていることに気づかないまま、何年も続けてしまう。悪意がないぶん、指摘されないと止まらない。
習慣型
育った家がそういう会話だった人。 兄弟間の弄りが日常で、それが標準の話し方として身についてる。本人の中では、これがコミュニケーション。 指摘されると、心底きょとんとする。えっ、傷つくの?って。
軽蔑型
本気で下に見てる人。数としては一番少ない。 分かりやすい特徴があって、こちらが助けを必要としている時に、絶対に助けない。 この型だけは、心理の理解に時間をかけなくていい。距離を取るのが答えだから。
型を見分ける、三つの場所
第三者の前でやるか、ふたりの時だけか
人がいる場所でだけ下げてくるなら、目的は観客。自分の位置を、周りに見せるためにやってる。 ふたりの時だけなら、目的はあなたとの距離の測定。親密型か防衛型の可能性が上がる。 同じ言葉でも、観客の有無で意味が変わる。ここは分かりやすい判定点。
本気で困った時に、続けるか止まるか
これが一番効く見分け方。 こちらが本当に落ち込んでいる時、体調を崩している時、仕事で失敗した時。 そこで手を止める人は、悪意がない。乗っかってくる人は、軽蔑型。 弱ってる相手を下げられるかどうかで、その人の中身が出る。
自分が下げられた時の反応
同じことを返された時、どうなるか。 笑って受け止められる人は、やりとりのつもりでやってる。 一瞬で不機嫌になる人は、下げる側でしか立てない人。この非対称に気づくと、相手の不安の量が見える。
店で聞いた本音
褒められると、どう反応していいか分からない
「私さ、褒められるとどうしていいか分かんないの。だから先に下げちゃう。ほんとはそんなつもりないんだけど」 何年も通ってた常連が、酔った夜に言った。 彼女はキャスト全員をいじる人で、正直やりづらい客だった。それがこの一言で、少しだけ分かった。褒められる位置に立つのが怖くて、先に低いところへ降りてる。
一番バカにしてた客が、一番泣いた
その人には続きがある。散々小馬鹿にしてた担当が店を辞めると決まった時、いちばん泣いたのが彼女だった。 「私、あの子のことめちゃくちゃ言ってたのにね」 言いながら、まだ泣いてた。 下げる言葉と、その人への好意が、同じ人の中で普通に同居する。これを知ってから、俺は小馬鹿にされてもすぐには判定しなくなった。
ただ、ひとつ言っておきたい。心を許してるからいじってる、という理屈は、言われた側の痛みを消してくれない。理由が分かることと、我慢する義務があることは、別の話だから。
効いた対処と、効かなかった対処
言い返すと、勝負になる
同じ強さで返すと、その場は勝てることがある。ただ、勝負が始まってしまう。 勝負が始まると、次はもっと強い球が来る。相手は位置を測ってるだけなのに、こっちが土俵に上がったせいで、本格的な争いになる。 一回勝って、三回やられた。俺の実績。
笑って流すと、報酬になる
いちばんやりがちで、いちばん続いてしまうのがこれ。 へへ、と笑って流すと、相手の中では成立した会話として処理される。反応が返ってきたから、次もやる。 流すって、無反応じゃないんだよ。笑うのは、立派な反応。餌をあげてるのと同じ。
真顔で聞き返す、が一番効いた
先輩の三つ目、聞き返せ。あれの中身はこう。 今の、どういう意味ですか? これを、笑わず、怒らず、真顔で、ゆっくり言う。 相手は説明しなきゃいけなくなる。説明しようとすると、その言葉が悪意だったことが自分でも見えてしまう。だから、たいてい、いや別に、と言葉を濁す。 半年後、また靴の値段をいじられた時、これを使った。相手が、あ、ごめん、と言った。あの瞬間の空気の変わり方、ちょっとぞくっとしたよ。勝ったからじゃなくて、削られる側から降りられたから。
コツは一度きりにすること。毎回やると、それはそれで攻撃になる。三回に一回でいい。それだけで、この人には効かないという情報が相手に伝わる。
それでも続くなら
頻度を落とす、という静かな答え
対処法を試して変わらないなら、その人はあなたの反応を必要としてる。必要とされ続ける義理はない。 会う回数を減らす。返信を遅らせる。二人にならない。 分かりやすく怒らなくていい。距離だけ、静かに変える。人を下げることでしか立てない人は、離れられたことにも気づかないことが多い。
恋愛なら、一度だけ本気で言う
相手が恋人や、そうなりたい人なら、話は変わる。距離を取る前に一回だけ、真面目に言う権利がある。 冗談なのは分かってるけど、あれを言われると傷つく。やめてほしい。 これで直る人は、親密型か習慣型。悪意がなかった人は、けっこうな確率で驚いて、やめる。 言っても変わらない、あるいは、そんなことで怒るの?と返してきたなら、その人は今後も同じことをする。判断材料としては十分でしょ。
自分がやっている側かもしれないなら
困った顔で、位置が確定する快感
正直に書くと、俺も同期に対してやってた時期がある。 売上で負けてた頃。あいつの喋り方をいじって、周りに笑わせてた。相手が困った顔をした瞬間、自分の位置が確定した気がして、すっとした。 最低だった。その同期とは、そのあと普通に話せなくなって、結局仲直りしないまま辞めていった。ずっと引っかかってる。
心を許してるから、は理由にならない
自分の中では親しさのつもりでも、受け取る側の耳では別の音になってる。 確かめる方法はひとつで、相手が笑った時の目を見ること。目が笑ってなければ、それは成立してない。 やめるのは案外簡単でさ。下げる言葉を出しそうになった時、代わりに質問をする。それだけで会話が続く。位置を測らなくても、人と話せるようになる。
靴を鼻で笑われた夜、俺は自分の靴を見て帰った。安物だった。事実として安物だった。今なら分かるけど、あの時削られたのは靴じゃなくて、返せなかった自分への評価のほうだった。だから対処法って、相手を黙らせる技術じゃないんだよ。削られる位置から一歩降りるための、手すりみたいなもの。

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