いい女だね、と言われた夜にかぎって、なかなか寝つけない。褒められたはずなのに、喉の奥に魚の小骨が一本だけ刺さったまま。
その小骨の感覚、たいてい正しい。
ホストになった最初の週、控え室でタバコをくわえた先輩に教わったのが、この一言だった。迷ったら、いい女だねって言っとけ、外れねぇから、と。
外れなかった。本当に、一回も!
顔を褒めるわけじゃないし、性格を褒めるわけでもない。誰に向けても嘘にならず、否定もされない。現役のあいだ、俺はその言葉を、ティッシュ配りのバイトみたいに毎晩ばらまいてた。
男が言ういい女は、どこも指さしていない
顔も性格も選ばない、ビニール傘みたいな褒め言葉
かわいいと言えば顔を、優しいねと言えば性格を、見たことになる。褒め言葉にはふつう、指さした場所がある。
いい女には、それがない。
指さしてないから、責任も生まれない。あとからどこがと突っ込まれても、なんとなく、で逃げ切れる。コンビニのビニール傘と同じ。誰が持ってても違和感がないかわりに、誰のものでもないわけ。
街ですれ違った誰かを見て、男同士でいい女だなと言い合うこともある。あれはほぼ、見た目と色気の感想。相手の人となりをひとつも知らなくても使える時点で、この言葉の軽さは証明されちゃってる。
男がこれを多用するのは、照れと手抜きが半分ずつ。真正面から褒めるのは恥ずかしいし、細かく褒めるには相手をよく観察しなきゃいけない。その面倒を一語で飛ばせる、便利な合言葉みたいなもんだわ。
かわいい、きれい、いい女で、男の座ってる椅子が違う
テーブル越しに、男たちの台詞を何年も又聞きしてきた。同じ褒め言葉でも、言った側の立ち位置が、声の向きで透けて見える。
かわいいは、距離を詰めたいときに出る。手を伸ばせば届く相手に向ける言葉。きれいは、一歩下がって眺めてるとき。美術館で絵の前に立ってる感じに近い。
いい女は、そのさらに後ろ。審査員席みたいな椅子に座って、腕を組んでるときに出やすい。
三つのうち、いちばん相手を上から見てる言葉がいい女だなんて、皮肉がききすぎてる。付き合い始めはかわいいの連発だったのに、半年でいい女しか言われなくなった。そう漏らしてた子がいる。あれは、彼の椅子が気づかない速さで後ろへ下がってた合図。
どこが?と聞かれて固まった新人時代
ここからは、俺の恥ずかしい話。
入って半年くらいのころ、指名をくれてた三十代の子に、いつもの調子で言った。いやぁ、いい女だよね、と。
彼女は笑いもせずにグラスを置いて、どこが?と聞き返してきた。
(え、どこって、どこ…)
三秒、フリーズ。口から出たのは、えっと、雰囲気とか、全体的に…という最低の返し。顔から火が出るって、たぶんああいう状態のことを言う。彼女は怒るどころか、ちょっと楽しそうでさ。
「男ってみんなそう。いい女って言うくせに、どこって聞くと黙るの」
あの夜を境に、自分の口からなめらかに出てくる言葉を疑うようになった。何百回も言った台詞は、舌の上で角が取れて、つるつるに磨かれていく。そういう言葉は相手の心のどこにも引っかからずに、床へ転がって終わり。
いい女と言われたタイミングで、意味はひっくり返る
別れ際のいい女は、振る男のための包装紙
お前はいい女だから、俺なんかよりもっといい男がいるよ。
この台詞、店で何回聞かされたかわからない。女の子たちが、元彼の最後の言葉としてテーブルに持ってくるのよ。泣きながらの子もいれば、鼻で笑いながらの子もいた。
いい女なら、なんで手放すの。そう言いたくなるのも無理はなくて。
あれは、彼女に向けた言葉じゃない。振る男が、自分をいい人のまま退場させるための包装紙なんだよね。お前は悪くない、と言っておけば、手を離す側の後ろめたさがいくらか軽くなる。中身は別れ話そのもので、外側だけきれいに包んである。
言われて即、言い返したり、どういう意味って食い下がったりした子ほど、あとまで引きずってた。ありがとう、とだけ返してその場を離れた子のほうが、立ち直りは早い。
だから、その言葉を宝物みたいに何度も開け直さなくていい。何が入ってたかわかった時点で、紙は畳んでゴミ箱へ。
文句を言わない子に向けたいい女は、冷蔵庫を褒める声と同じ
付き合ってる最中に言われるいい女も、油断できない。
会う日は男の都合に合わせる。直前のキャンセルにも怒らない。返信が遅くても催促しない。そんな子に、男は目を細めて言う。お前って、ほんといい女だよな。
ありがたいとは思ってる。そこに嘘はない。その気持ちが向いてる先は、彼女という人じゃない。手間がかからないっていう性能のほう。買ったばかりの冷蔵庫に、静かでいいね、と話しかけるときの声とそっくり。
厄介なのは、ここから。この意味で言われてるうちは、褒められる回数が増えるほど扱いが雑になっていく。本人は褒められてるから気づけない。はぁ…ここで何年も足踏みしてた子を、何人見送ったかな。
しらふで、つっかえながら出てきたら
こっちは、信じていい寄り。
昼間のカフェや、帰り道の信号待ち。酔ってもないし、口説く流れでもないところで、不意に出てくる。しかも、一息で言い切れてない。なんていうか、その、いい女だなってずっと思ってて、みたいに言葉を探しながら。
言い慣れてない言葉は、途中でつっかえる。借り物じゃなく、自分の頭でいま組み立ててるから。
正直言うと、わざと噛む技術もこの業界には転がってる。俺も一時期、鏡の前で練習した。だから百発百中の見分け方にはならない。ただ、練習した噛み方って、毎回同じ場所でつまずく。本物は、どこでつまずくか読めない。
男同士で言ういい女の本音は、控え室と牛丼屋にあった
閉店後の控え室で飛び交ういい女は、楽な客のラベル
店が閉まったあとの控え室は、案外正直な場所だった。ネクタイをゆるめた男たちがソファに沈んで、その日の客の話をする。
あの子、いい女じゃん、と誰かが言い出すとき、指してるものは決まってた。会計がきれい。帰る時間を自分で決める。朝四時に長文のLINEを送ってこない。並べてみると、全部こっちが楽できるって話でしかない。
聞きながら、無性にイラついてた。周りにじゃなく、自分に。俺もその言葉を、テーブルでは最上級の褒め言葉として渡してたから。表では賛辞で、裏では値札。同じ三文字が、ドア一枚はさんで別物になる。
本気のいい女は、ため息と一緒に過去形で出てくる
忘れられない朝がある。
六時の牛丼屋。営業明け、先輩と二人でカウンターに並んでた。紅しょうがを山盛りにしてた先輩が、突然、低い声でこぼした。
「あいつ、いい女だったわ」
誰のことかなんて、聞けるわけない。昔の彼女らしいのは、空気でわかる。店内がしーんとして、湯気の音まで聞こえそうな静けさ。先輩は箸を止めて、こう続けた。俺の嘘に気づいてて、気づかないふりを一度もしなかったんだよな、って。
牛丼の味が、そこで消えた。
本気でいい女と言うとき、男の声にはため息が混ざる。時制は、ほとんど過去形。外した額縁のあとって、壁に白い四角だけ残るでしょ。相手の値打ちに気づくのは、あの四角を見たときなんだよ。店の中でも外でも同じだった。いちばん真剣ないい女は、いつも本人のいない席にしか出てこない。
都合のいい女との違いは、気づいたことを飲み込むかどうか
我慢がうまい人ほど、駅の時計になっていく
都合のいい女と、男が本気で言ういい女。外から見ると、どっちも穏やかで、あまり怒らない。見た目じゃ区別がつかないじゃん。
分かれ目は、気づいたことの扱い方にある。
彼の嘘や雑な態度に気づいたとき、飲み込んで見なかったことにする人がいる。波風を立てないように。先輩の元カノは、そこで口を開いた。責めるためじゃなく、見えてるよ、と知らせるために。
詰め寄る必要はない。昨日の電話、心ここにあらずだったね、くらいで十分届く。
飲み込み続けた人は、だんだん駅の時計みたいになっていく。毎日正確に動いてるのに、誰も見上げない。止まった日だけ、みんなが慌てる。その理由は、時計が恋しいからじゃない。電車に乗り遅れるから。
男が失って困るのは彼女本人じゃなく、彼女が黙って回してくれてた何か。けっこう残酷な話よ。
いい女でいるのに疲れた、店で聞いた二人の本音
店には、この飲み込み疲れを抱えた子がよく来てた。
アパレルで働いてた三十歳手前の子は、明るくて、よく笑って、誰からも好かれるタイプ。三杯目のころ、グラスの縁を指でなぞりながら言った。
「いい女って言われるたびにさ、ちょっとずつ遠くに置かれてく感じがするの」
三十四歳の子の言葉も、まだ耳に残ってる。
「一回でいいから、めんどくさいけど好き、って言われてみたかった」
あの時、まともな返しはひとつも出てこなかった(泣)。いい女でいようと頑張った人ほど、わがままな女にだけ許される近さから締め出されていく。手がかかるって、裏を返せば、手をかけたいって意味なのにね。
嫌だと言っても、翌週ふつうに来る人
じゃあ、飲み込まずに全部ぶつければいいのか。それも違う。
先輩の昔の彼女がやってたのは、もっと小さいことだったはず。嘘でしょ、と軽く言って、あとはいつもどおり飯を食う。責めないけど、見逃さない。このさじ加減ができる人には、関係の中に体温がある。触れば、人肌くらいに温かい。
店でも似たようなものだった。ホストが本気で一目置いてた客は、使う金額の大きい人とは限らなかった。今日はここまで、と自分で席を立てる人。ヘルプの新人の名前を覚えて帰る子。奢られたとき、悪いよ、より先に、うまっ!が出る子もそう。
意外と、そういう子ほど、嫌なことは嫌だとはっきり言う。言ったうえで、翌週また平気な顔で来る。怒りを、関係の終わりにしない。男が裏で本気のいい女と呼んでたのは、こういう人たちだった。
男が本気で惚れた女に使う言葉は、急にダサくなる
ピントが寄りすぎて、変なところを褒めはじめる
ホストを辞めてから、付き合った人がいた。店とは縁のない会社員。
落ちたのは、付き合う前の居酒屋だった。俺が営業のノリで喋ってたら、彼女がジョッキを置いて言った。その喋り方、仕事用でしょ、疲れない?って。背中に冷たいものが走って、そのあと、泣きたいくらいホッとした。見抜かれて救われるなんて、あれが初めて。
その人に、俺はいい女だねと言えたためしがない。言おうとすると、喉の手前で止まる。商売道具の匂いがして、どうしても口に乗せられない。
冬になると、彼女はこたつでみかんを剥いた。白い筋を残らず取ってから、半分を俺の手のひらに乗せてくる。ある晩、それを受け取りながら、気づいたら口が勝手に動いてて。
「その、筋、全部取ってから渡してくるの…なんか、いいなって」
言い終わった瞬間、自分でもぽかんとした。何年も褒めるのを仕事にしてきた男の、渾身の褒め言葉がそれ(笑)。彼女は吹き出して、変なの、と言いながら、そのあと三日くらい妙に機嫌がよかった。
本気になった男は、褒めるときのピントが寄りすぎる。顔全体じゃなく、まつ毛の一本に焦点が合ってしまう感じ。電話を切る前の一拍とか、寝起きの声の低さとか。他人が聞いたら首をかしげるような場所ばかり、口にする。なんでそこなのか、本人にもうまく説明できない。まぁ、横から見たらかなりダサい。
本人の前より、男友達の前で名前が出る
わかりやすいサインが、もうひとつある。その言葉を、どこで使うか。
本気の男は、本人に向かってより、男友達の前でいい女だと言いがち。名前つきで、聞いてもいない小話まで添えて。聞かされる友達のほうは、もう胸焼けしてる。
彼の友達と飲んだとき、あー、あの、みたいな顔をされる。それは、陰で何度も話題にされてきた証拠。紹介されても、誰もピンときてない様子のときもある。彼の中で、まだ言葉になってないのかもしれない。まさか、友達の存在すら知らされないまま半年、なんてケースも。それはそれで、ひとつの答えなんだけどさ。

コメント